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Cor Blok インタビュー:後編

2010年03月27日 14:15

Tolkien Calendar 2011
Tolkien Calendar 2011 (2010/08/01) J. R. R. Tolkien 商品詳細を見る


前編からの続きになります 【Source:Tolkien Library:3/9付より】)

Tolkien Library(以下TL) 「それは全て50年前に起こったことですが、これらのイラストの場合、どのような影響が特に顕著だったかについて、思い出すことが出来ますか?」

Cor Blok (以下CB) 「一つには、“Barbarusia”は私に、“様式(Style)”とは実のところ、宛らゲームの一対のルールの如く、ムーブマンを規制すると同時に、許される限りの最大限をも要求するものだということを気付かせてくれました。また、出来る限り最も巧妙な手法もです。
同様に様式は、アーティストの個性、または集団的無意識から自然に育ってくる何ものかである必要がないために、ある特定の場面においてさえ、“様式”に仕えるために、この一対のルールを意識的に採用することが出来るのです。

アカデミーでの研究の間に、私は豊富な種類の絵画的な“言語”---特に古代中東から中国、コロンブスによるアメリカ大陸発見以前のアメリカにおける、所謂“原始美術”にとても興味を持つようになりました。
このことはBarbarusiaの芸術を創造するのに、一つの興奮剤となりました。私にとって特に興味を惹かれたのは、精巧で視覚的に魅惑的な象徴性をもった古代ミシュテカアステカ族の年代記でした。
これらの経験から、コミュニケーションの手段としての視覚映像が私の生涯の仕事へと発展していきました。
1963年から1965年まで、私は市立美術館の教育部門に属するスタッフの一員として働きました。1965年の春に開催された『Taal en Teken』と呼ばれる講演会の準備の大半はそこでなされたのです。
このことは、中国の習字やアメリカインディアンの絵文書、オットー・ノイラートの視覚統計学(pictorial statistics)といった主題の研究に私を導き、1967年に出版した私の本『Beeldspraak』の部分的な材料となりました。

もっとも、トールキン作品の絵はこの展開にぴったりと適合していたので、それより2年も早く完成していました。
他に、“実在する”(すなわち非Barbarusianの)中世絵画で言えば、ペルシャやインドの細密画や、ピーテル・ブリューゲル(父)から、絵の様式に関する特定の影響を受けました。私は常に後者の仕事の、明白で単純な閉じられた輪郭の中で全ての形状を制限する手法を常に賞賛してきました。
“バイユーのタペストリー”にもまた、関心がありました。しかし、思い出せる限りで言えば、“トールキン・プロジェクト”が既に軌道に乗っている間だけ、私は意識的に現代のコミック・ストリップに興味を持ちました。
それらに対する関心は、ロイ・リキテンスタインが彼の絵にその手法を使ったことと、『バーバレラ』や『アステリックス』のようなコミックの出版、それに古典的な『クレイジー・カット』の再版によって刺激されたのです」


TL 「私は、トールキンがあなたの絵を何点か買い求め、あなたは教授を訪問したと聞いています。この訪問の詳細を思い出すことが出来ますか?」

CB 「とりたてて感動的なものは何もありません。無名の若い画家が著名な作家を訪問した---それだけのことです。もっとも、この有名作家は充分親切にしてくれましたが。
わたしは彼の出版者のレイナー・アンウィンによって紹介されました。同じようにハーグでは、ファン・ストックムの書店のJacobi氏によって、アンウィン氏に紹介されたのです。
わたしはBarbarusian細密画の若干の実例と共に、自分の絵の中から選りすぐったものを持っていきました。そしてわたしたちはこれらの作品のことや、本の文章にイラスト添えた場合の良い例と悪い例について議論しました。
そこでわたしの作品は、『指輪物語』をイラストにする最初の試みではないことを知りました。トールキンは、彼の文章に絵を添えることについては、たとえ彼自身が描いたイラストであっても賛成していないようでした。この見解は全くもっともであると思いましたし、今もそう思い続けています。
しかしながら彼はわたしの絵を気に入ってくれて、後に絵の中から2点を買ってくれました(それにわたしはもう1点を、プレゼントとして加えました)。

最近になって、Scull(*Christina-)と Hammond(*Wayne G-)の著した『Tolkien Companion and Guide』を読みましたが、彼がレイナー・アンウィンに宛てた手紙の中で、出版社を通して送られてきた(挿絵入り『指輪物語』の)最初の5つのうち、4つについては“絵画としては魅力的だが、挿絵として良くない”と思っていたことを知りました。
当節では、“崇高さや勇敢さを表現出来る、あるいは表現しようとする”優秀なアーティストに出会うことには殆ど希望が持てないと、彼はこの手紙の中で不平を漏らしています。わたしは、わたしの絵の多くが、この基準に近付けるかどうか疑問に思うのです。
トールキンを訪問した後、オックスフォードギャラリーでの展示会の可能性も議論されました。しかし、結局は実現しませんでした。
『Taal en Teken』講演会の準備をしていた1964年に、わたしは再びトールキンに手紙を書いて、想像上の言語の発明者としての彼の経験について訊ねました。しかし彼は、ありとあらゆる商売絡みの出来事によって“非常に悩み疲れている”ことを理由に容赦してくれるようにと言い、それに答えることを辞退しました」

TL 「後年、あなたの絵のいくつかが、『指輪物語』のオランダ語版の表紙に使われましたね。これはどのような経緯で起こったのでしょうか?」

CB 「Spectrumペーパーバック版(*オランダの出版社Het Spectrum発行)で、1965年に刊行されましたが、これがどのように起こったかについては、正確には思い出せません。
その2年前に、わたしはHet Spectrum社のためにハンス・ヤンツェンの『Ottonische Kunst』をドイツ語から翻訳しました。それは市立美術館の学芸員の一人が、わたしの為に確保した依頼でした。それで既に出版社とはコネクションがあったのです。
その時、翻訳者のマックス・シューハルトを含む数人に、個人的にわたしの絵を見せましたが、このことが彼らのうち誰かの役に立ったのかどうかは定かではありません。
ちなみに、オットー朝美術と建築に関する研究論文を翻訳することは、初期中世絵画に対してわたしが夢中になったもう一つの実例です」


TL「 あなたはトールキンファンには『指輪物語』のイラストレーターとして知られていますが、本も書かれていますよね?」

CB 「確かに書いています。既に触れた『Beeldspraak』を別にすると、2003年に出版された『Beeldvertalen』があります。それは様々な点で思索が継続しており、前作から発展して、視覚映像を“読むこと”についての一般的な入門書となっています。
『Beeldvertalen』は、様々な美術学校での教師としての経験と、ユトレヒト、それにマーストリヒトとライデンの大学での体験とに基づいているのです。
わたしは、オランダの国有コレクションにおけるモンドリアンの仕事の『解題付き分類目録(catalogue raisonne)』を執筆しました。これは1974年に発行されました。それとドイツの出版社DuMont Schaubergのために、抽象芸術の歴史について書きました。これは1975年の発行です。それから、公共の場においての芸術、美術館方針、そして、芸術と科学の関係など、現代芸術に関しての多くの出版物に携わりました」
TL「トールキン・イラスト以外の絵も描いていますね?」

CB 「ええ、描きました。でも、これまでそれで生計を立てようとしたことはないのです。わたしは画家になる代わりに美術教師としての教授法を選びました。
しかしながら、'50年代の美術学校は、形や色を取り扱うことの若干の基礎については教えることが出来ましたが、実際にはモダンアートの進化の多様性のために、もはや若いアーティストが守るべき一つの“標準様式”は存在せず、それらをどうするべきかについて語る術を持たなかったのです。従って、1956年にアカデミーを卒業してすぐに、わたしは完全に困り果て、全てをゼロから始めなくてはならないと痛感しました。
幸いなことに、Barbarusianアート“プロジェクト”は“自主的”な絵を創作するために様々な方法で実験している間も、芸術史から模倣した枠組みを提供することによって、わたしが視覚映像を作成し続けることを可能にしてくれました。これらの方法論は、厳密に幾何学的な抽象概念から発して“ジェスチャー・ペインティング”や様々な形成の試みに渡りました。
Barbarusiaが“トールキン(イラスト)”に受け継がれたときも、これらの実験は続けられました。
実質的には、これらの作品のどれもが、1964年以後の批判的な評価に耐え抜くことは出来ませんでした。しかし、その時わたしはついに、主題とその手法に関して“本領発揮”し始めたのです。

現代アートの情勢、特にR・B・キタイ、デイヴィッド・ホックニー、そしてオイヴィンド・ファールシュトレームの仕事は、 ジョルジョ・デ・キリコやマックス・エルンストの初期の絵や、bien etonnes de se trouver ensembleにおけるカンディンスキーやパウル・クレーの仕事に対する長年の魅力とともに、鼓舞し合うものだと証明されました。
1964年と'70年代初頭の間で、わたしはいくつかの油絵とスケッチを制作して、3つの展示会(その最後のものは1968年でした)を開催しました。
一方でわたしは美術館の仕事をして、美術学校で教え、芸術評論を書くことで生計を立てていました。このことは芸術における現代の成果に非常に精通することになった上に、多くのアーティストたちと接触することにも繋がりました。

'60年代は刺激的な新しい現象の爆発の舞台となりました。イギリスとアメリカのポップアート、ヌーヴォー・レアリスムランド・アートアルテ・ポーヴェラコンセプチュアル・アートなど…それは当然、後遺症のような何かが続いて起こることを意味していました。
わたしは、『Sonsbeek'71』---アーネムにあるSonsbeek公園を中心に、オランダ中で展開した(芸術的)示威運動---の広報と育英事業に携わりました(現在もクレーラー・ミューラー美術館にあるクレス・オルデンバーグの巨大な『こて』と、フレヴォラントにあるロバート・モリスの『天文台』は、Sonsbeek'71のとき造られたものです)。 しかし、この運動が最新の美術形式の輝かしい進展と世間一般の承認を生ずるという単純な希望は、すぐに落胆に取って代わりました。
私自身のことで言えば、他のアーティストと接触したからといって、彼らの殆どが結局は同じことを繰り返すか、完全に枯渇するまで一つの主題のバリエーションに拘るかということに気付かずにはいられなかったのです。
また、特に1968年にパリで起こった学生運動とそれに続いて各地で起こった反体制運動以来、わたしたちの資本主義的な大量消費社会の芸術の役割への批判は、最初は新世代のマルクス主義者たちから、後に他方面からも激しくなるばかりでした。
芸術評論家として、これらの情勢を熟考することはわたしの仕事でした。そしてこれらの思想は同様に、わたし自身の芸術的な実践に関する考えに影響を及ぼしたに違いありません。

わたしは'70年代初頭の間、“自主的な”仕事を制作し続けました。しかし、新しい“プロジェクト”もまた、開始したのです。それは一種のコミック・ストリップ(ただしこれは特にコミック<滑稽な漫画>というわけではありません。現代的な名称で言えば“グラフィック・ノベル”でしょうか)で、白黒で、線画とコラージュ、そしてテキストを色々な手法で組み込んだものです。
これでわたしは、もはや充分に意味を成さなかった孤立した絵から脱することが出来ました。その一方で、ひとつのテーマ、またはモチーフの上で、バリエーションを制作する可能性を維持することが出来ました。
後者は、ページとチャプター(章)との間で必須の形式の連続性のため、本を作る際のコンテクトに自然にフィットします。グラフィック・ノベルの体裁でも、視覚媒体に劣らない表現の手段として、言語を使うことが出来ました。
1967年にその最初の試みを始めたときは、内容と形式についての考えは、まだ非常に漠然としたものでした。
1973年頃から、実質的にはビジュアル・アーティストとしてのわたしの全エネルギーは、このグラフィック・ノベルに注ぎ込まれました。形式と内容を具体化し変化させ、出だしの失敗を削除し、画像とテキストの関係について学んできたのです。
この本は現在、2~3の非常に小さな細部を別にすれば、最終的に完成しています。それぞれの“章”は、異なる“基本計画”で構成されているのです。
いくつかは全て画像でテキストはありません。他は余白を間に入れた、テキスト付きの画像から成ります。あるいはイラストの手法によって、画像とテキストを異なるバランスに組み込みます。
言葉は英語ですが、その多くをジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』に負っているのです。
わたしは本に粗筋を与えようとは思いません。何故なら、この本には観念を理解する必要も、何のプロットもないからです。エピソードは互いに関連がありますが、夢の中のイベントのように相次いで起こるのです」


TL 「最後にもう一つだけ質問をさせて下さい。お尋ねするのも厚かましいことですが.将来の望みや夢についてお聞かせ願えませんか?」

CB「要するに、今やわたしは高齢だからということですね?
科学と芸術の結びつきを含んだ、芸術に関する本を、少なくとも一冊著すつもりです。それから多分、他にグラフィック・ノベルも描くことになるでしょう。そして結局のところ、イーゼルに戻ることが、それほど悪いアイデアではなかったということを知ることになるのでしょうね」

  *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   

せめて前編から1週間以内にUPしようと思いながら、忘れた頃の続きで申し訳ありません。
勿論、まとまった作業時間がなかなか取れないことが最大の理由なのですが(…イヤ一番の理由は、英語が苦手で人の何十倍もかかって訳しているからかな?)、何よりCor Blok氏の話がトールキンファンとしても美術ファンとしても大変興味深くて、登場する固有名詞の一つ一つに、「え~っ!あんな方とも交流が~!?」とか、「あの歴史的美術イベントの当事者なの~!?」等々逐一反応してしまい、その都度ネット検索は勿論、色んな資料に手を出しては読み耽ってしまうことになるのです~。
西欧現代美術の生き証人のような半生とその博識さ!トールキン教授ご自身はもとより、『ホビットの冒険』を出版するきっかけを作ったレイナー・アンウィン氏、世界で最初に『指輪物語』の外国語訳(オランダ語訳でした)をした翻訳者、マックス・シューハルト氏とも交流があったことにもビックリです。
そして、架空の国の美術史を考案してしまうところや、自らの作品に使うテキストに、ジェイムズ・ジョイスの造語や言葉遊び的要素の強い作品を選択するところなど、教授との共通点も数多く感じさせますね。
2011年のトールキン・カレンダー発行をきっかけに、氏のトールキン・イラストの全貌が明らかになり、イラスト以外の仕事についても、国内外で幅広く紹介されるようになって欲しいと心から思います。
最後に、毎度ツッコミどころ満載の意訳をお詫びしつつ----m(_ _;)m モ~コレバッカリハナントモカントモ★

【追記】4月20日、カレンダーのカバー写真出ました。嬉しくて一番デカいの貼ってます(笑)
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